カテゴリ:ドガ( 2 )

アイロンをかける

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きれいにアイロンのかかった服を着ると、 気持ちがひきしまる。また、何か楽しいことがありそうな予感もする。
しかし、アイロンをかけることが好きな人はあまりいないだろう。意外と細かい手作業だからだ。
 チェーン店でクリーニングを安くすませる場合もあるが、個人経営のお店で、アイロンを丁寧にかけている姿を見ると、安心する。その場合、アイロンをかけている人は、ほとんどが男性だ。
ドガ(1834-1917)の生きた時代は「洗濯女」と言われる職業があり、女性が洗濯からアイロンかけまで行っていた。彼の描いた「アイロンをかける女たち」(1882)は当時の様子をよく表している。
また、美しい風景を描いた印象派の時代に、労働する女性のありのままを描いたドガの独自性にも注目したい。
この作品の特徴の一つに、二人の女性の対比が挙げられるだろう。
右側の女性は前髪が垂れ、顔の表情がわからない。両手で力強くアイロンを押さえていることから、アイロンをかけることだけに懸命なことがわかる。
一方、左側の女性は右手にしっかりワインの瓶を握り、左手は耳をおさえ、大きな欠伸をしている。この女性の表情をよく観るとおもしろい。目は一段と細くなり、まん丸の鼻は穴までよく見える。さらに二重顎である。
一つの絵の中に、 「真剣さ」と「解放感」の違いを巧みに描いて、興味深い作品だ。
彼女たちの仕事場はおそらくあまり広くなく、とても暑かったのだろう。薄着である。大欠伸して一服したい気持ちもわかる。
f0104004_21501122.jpgドガの「アイロンをかける女たち」に感銘した一人の天才画家がいた。ピカソ(1881一1973)である。彼は気に入った絵を単に摸写するのではない。完全に消化して、独自に展開するのだ。
ピカソの「アイロンをかける女」(1904)を観ると、ドガの描いた右側の女性を真似て、 完全に自分のオリジナルとしている。
ピカソは自分の思いを絵に表す画家であった。左肩を極端に上げ、首の下は深く窪んでいる。さらに、目をぼやかし、彼の描いた「盲人の食事」(1903)と似ていることから、彼女は目が不自由なのかもしれない。アイロンをかける重労働で、この人の抱えている内面の悲しみや苦しみを伝えるのである。
一方、 ドガはモデルに必要以上の情感や感傷をいつも入れない。人の汚れ物を洗い、暑い部屋で必死に働く女性への同情を描かない。しかし、左側の女性にオレンジのスカーフ、そして右側の女性のブラウスはピンクを用い、厳しい労働をする女性への静かな心遣いがなされている。
右側の女性の内心はどうなのであろうか。左側の女性が大欠伸をしているのに、自分はひたすらアイロンをかけている。左側の女性の仕事が早く終わり、うらやましく思っているのか。さぼっていて、不愉快に思っているのか。それとも微笑ましく思っているのだろうか。この作品からは全くわからない。鑑賞者が空想していいのだ。画家の説明がなければなおさらだ。そこが絵画鑑賞の面白さである。
私は2人が同一人物のように想像したい。ピカソの「アイロンをかける女」を観てから、一段とそう思ってしまった。アイロンを懸命にかけることだけに集中する。そして、それが終わった後の最高の解放感。
アイロン製品はめざましく進歩した。しかし、いつの時代でもきれいにアイロンをかけることは技術を要する。私は綿のブラウス一枚をかけるのも、なかなか思うようにいかない。
時代が変わっても、ドガの「アイロンをかける女たち」を観ていると、アイロンをかけることの「真剣さ」も「解放感」も、とてもよくわかるのだ。
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by van__gogh | 2007-09-04 23:08 | ドガ | Trackback | Comments(0)

ひろしま美術館 ドガ 『浴槽の女』

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まるでカメラのシャッターを押し間違えたような絵だ。ひろしま美術館で鑑賞した、ドガ(1834-1917)の『浴槽の女』(1891)である。
裸の女性は、海綿を使って盥を磨いていることから、湯を浴びた後にちがいない。官能的でもなく、嫌らしさも全く感じない。ただただありのままの姿だ。生きて働く女性の現実を感じ、驚くほどの力があふれている。このようなポーズで描く画家も彼ぐらいだろう。
肉体からは、ほんわかした温かさが伝わってくる。パステルが余計にそうさせるのだろう。特に、お尻と背中の右側は青みがかっており、この女性の肌の木目こまやかさがうかがえる。背中の中央は光があたり、白く輝いている。
当時の裸婦は、ルノワールに見られるように、肉体を甘くやさしく描くことが主流であった。同じく、ひろしま美術館にある「パリスの審判」も、主題がギリシア神話だが、女性をゆったりと美しく、理想的に見せている。
ドガは裕福な家庭に生まれたが、洗濯女やアイロンをかける女など、労働する女性を多く描いた。中年から晩年にかけては裸婦も多く描いている。しかし、他の画家とは異なり、動いている一瞬をさまざまな角度から大胆に描くのだ。  
ドガ自身、「裸婦は見る者を予想したポーズでいつも描かれているが、私の描いている女性たちは正直で、単純な人々で、自分の動作に夢中で他のことには関心がない」と自分の考えを述べ、当時の画風を批判している。そんな観察眼の鋭い彼の絵が、私は大好きだ。
驚くことに、この作品は、ドガ57歳に描いたもので、かなり視力が弱くなってからの作品である。
ドガの最大の特徴は正確な線描と言われる。青年時代に、尊敬する画家のアングルから「とにかく線をひきなさい」と言われ、それを忠実に守った。この作品からは、目が見えなくなっていることを全く感じさせない。若い時に培った線描の成果と同じ題材を、異なる角度から何回も何回も描いたからだろう。また、見えなくなってきてからの方が、色彩が鮮やかだから不思議だ。
画家にとって目は命である。口や足で描いた絵を何度か見たことがあった。かなりの努力と忍耐を要しただろう。しかし、見えない目で絵を描くというのはどのようなことだろうか・・・。
もともとドガは神経質で、人にも自分にも厳しく、その言動によって、友人も少なかったという。そのような頑固なドガの悲しみと怒り、そして、それでも描きたいという気持ちは計り知れない。
『浴槽の女』をじっと見つめていると、描ける喜びと見えなくても描きたいというドガの強い執念を感じる。好きなことはやはり諦めないし、諦めきれないのだ。
この美術館のある広島は、61年前の今日、世界最初の原爆が投下され、多くの生命が奪われ、街は廃墟となった。絶望、悲しみ、痛み、怒り、貧しさ・・・さまざまな苦悩があった場所である。
盥にしっかりと足を踏みしめた女性の体はたくましい。何もまとわず裸で前かがみになり、海綿で盥こすることだけに懸命だ。その姿に、復興のために必死で働いた広島の人々の思いを私は重ねてしまうのである。
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by van__gogh | 2006-08-06 08:50 | ドガ | Trackback | Comments(0)