カテゴリ:2012年パリ( 2 )

モンマルトルのドガのお墓を訪ねて

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ファン・ゴッホの次に好きな画家は、迷うことなくドガである。ドガも本当に本当に好きな画家だ。
彼は印象派の一員でありながら、室内画を好んで描いた。
彼の題材の多くはバレリーナや洗濯女、そして裸婦などであるが、「鍵穴から覗きこむような」という表現をされるほど、普通では描かれないシーンだったり、モデルの動きのほんの一瞬にシャッターを押したような鋭い描写だ。そしてその人物の骨組みまで捉えたような見事なデッサン力なのである。

パリに行った際には、モンマルトルにあるドガのお墓に行こうと決めていた。
以前テレビでドガのお墓を放送したことがあり、小さな家のようなお墓で、お墓の中が公開されており、ドガの遺品やドガにまつわる品物が飾られていた。

そのため、モンマルトルの墓地につけば、そんなに迷わないで彼のお墓を見つけることができると思っていたのである。

入口の反対側から歩き始めたので、入口までには意外や時間がかかった。入口でマップをもらい、もう絶対に大丈夫だと思っていた。しかし道に沿って歩いているのに、見つからないのである。
最初は小さなお家のようなお墓、それもドアが開いているお墓を探したが見つからない。まさか墓石が変わったとも思えないが、丁寧に探していく。それでもダメなのである。
私は旅行先で通りすがりの人にめったに道を聞かない。しかしここまで来て帰るわけにはいかないので、合計3組に聞いたのだが、結局わからずじまい。

探せるところは探したのだが、もう無理かも・・・と諦めモードになったのだが、前日オルセー美術館で鑑賞した『アプサント』の感動がまだまだ心の奥に深く焼きついていた。「誰にも描けないあの雰囲気、あの描写、あの色合い・・・」。どうしてもドガのお墓を探さなくてはという気持ちが高まってしまう。
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思い出したのは「地球の歩き方」の地図。そこには道路と道路の交差する場所にドガのお墓は記されていた。
今の場所よりも少し上った奥。もしかしたら・・・。祈るような気持ちで上って行くと、どこかで見た懐かしいレリーフが見えてきた。あれはドガの自画像に違いない!とほぼ確信した。
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それでもテレビでは扉がオープンになっていたため、恐る恐る近くに行くと、
「FAMILLE de GAS」と書かれており、本当にドガのお墓だったのである。
扉がオープンになっていたのはテレビ撮影のためだったのかもしれない(自力で開けられたのかな?)。
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ドガのレリーフを見ながら、『アブサント』、『アイロンをかける女たち』、踊り子の彫刻など、いろいろな彼の作品を思い出しながら、今自分はとてもドガの近くにいる・・・という気持ちになってしまった。

ドガは1917年9月27日、83歳で亡くなった。長年視力の低下に悩みながら執念で制作活動を続けてきた。最後の数年はほとんど目が見えなく、制作も断念せざるおえなかった。ドガの悲しみや悔しさ・・・。

自分が死んでも弔辞は不必要だと公言していたドガ。しかし友人の画家、ジャン=ルイ・フォランに、もし何か話さなくてはならないようなら、「君はこよなくデッザンを愛した」とだけ言い残してほしいと言ったという。

デッサンを心から愛したドガ・・・。彼の正確なデッサンは永遠だと、改めて思ったのである。


★エドガー・ドガ 『アプサント』 油彩 1876年 オルセー美術館




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父の七宝作品『アイロンをかける女たち ドガより』
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by van__gogh | 2012-09-02 20:55 | 2012年パリ | Trackback | Comments(0)

パリのファン・ゴッホのアパート

パリを訪れたならば、絶対行きたいところの一つが、モンマルトルのファン・ゴッホのアパートだった。
彼が絵画で花開いたのはもちろんアルル時代である。しかし人との関係・交わりという意味で最も幸せだった時期はパリ時代ではないかと思う。
もちろん、アルルでゴーギャンを待ちわびる時も幸せだったかもしれない。
しかしやはりパリ時代が1番、人として幸せだったと思う。
彼は人を愛し、人と語ることを好む。それがエスカレートして相手が負担になることもあるが、とにかく話すこと、まして好きな絵画や文学を語りあえる仲間がいたことは彼にとって大きな喜びだったに違いない。そしていつもそばには最愛の弟、テオがいた。

彼がアルルに行ったのも、パリにはない明るい太陽を求めたためもあったが、画家同士が同じ家に住み、助け合いながら、自立した画家の共同体、ユートピアを作りたかったからだ。
彼の考えるユートピアの土台が彼のパリ時代だと思う。

ファン・ゴッホのアパートはモンマルトルのRue Lepic54にある。地下鉄の
Blanche駅からRue Lepicを目指したが、なかなか見つからず、地図や周りの標識をみると、どうやら反対方向であったことに気づいた。
お犬様のフン(略してお犬様)を踏むことを恐れ、地図を見ることも中途半端だったのが最大の原因。
そしてもう1度、Blanche駅に戻り、Rue Lepicを探す。ここから、ちらほらお犬様が・・・。
前日はオルセーに入り浸り、付近で見かけたものの、想像を超えるものではなかった。
しかし!!モンマルトルはさすが庶民の場所。下を見ないととてもじゃないけれど、歩けない。

まずはRue Lepic50のドガのアパート(アトリエ)の前を通る。ここは何の案内もなく、ドガが住んでいたことなど、ほとんどの人は知らないだろう。
そして少し歩くとファン・ゴッホと弟、テオのアパートが見えてくる。


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外装の手入れは何度もされているが、建物は1886年のままである。
「フィンセント・ファン・ゴッホと弟テオが1886年から88年まで住んでいた」という表札がなければ、ただ通り過ごしてしまう普通のアパートである。

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ファン・ゴッホ兄弟の部屋は4階だそうだ。彼が4階から見て描いた『ルピック通りのゴッホの部屋からのパリの眺め』を観てみよう。
これはパリに来てから約1年たっており、スラーやシニャックの影響を得ていたことがうかがえる。
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このアパートの外観は変わっていないが、ドアはどうだろう・・・。たぶん変わっていないような気がする。
そしてドアハンドルは??ファン・ゴッホも触っている??もしかしてこれも変わっていないかもしれないと思い、私も触ってみる!!かなりオタクだけれど、すごく感激!!
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しかし、下を見ると、またもやお犬様が・・・。いい雰囲気をこわさないで!!

1886年~1888年、ファン・ゴッホはここに住み、短い間だったが画塾に通い、ロートレックやベルナールと親しい友人になった。そしてテオの紹介で、ピサロやドガなどの印象派と出会い、さらには印象派を消化したスーラーやシニャックの影響を受ける。
またモンマルトルの画材屋のタンギーに出会い、ファン・ゴッホの作品と画材を交換してもらったり、小さな絵画展を開いたり、ここにはファン・ゴッホのパリ時代がギュッと詰まった原点だ。
建物に入っていく姿や、絵を持って出かける姿を想像したりと、またまた浸ってしまったのである。

その後ムーランド・ラ・ギャレットの前で写真をとり、ファン・ゴッホやルノアールのことを思う。ルノアールを思い出したのは、前日、オルセー美術館で鑑賞した彼の『ぶらんこ』があまりにもすばらしかったからだ。
そしてこのあたりは、まさしくユトリロの絵の雰囲気だった。

次はファン・ゴッホが描いたモンマルトルのカフェレストラン『ラ・ガンゲット』(現在はオーベルジュ・ドゥ・ラ・ボンヌ・フランケット(Auberge de la Bonne Franquette)に行ってランチを食べ、サクレ・クール寺院に行き、最後はテルトル広場で肖像画を描いてもらい、一生の思い出にするつもりであった。
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それが数分、地図と足元を気にしながらユトリロ気分を味わっていたら、いきなりお犬様の大群が!!それは想像を超えるものであった。避けて、跨いでよけれるほどの量や広さではない!!前方は一面、お犬様なのである(畳一畳以上)。
私の予想では、目的のカフェレストランにはまだまだだ。この先、このような場面に再度遭遇することは容易に想像できる。
そのため、ランチと肖像画は泣く泣くあきらめ、さらにタンギーの画材屋跡に行くこともあきらめ、こうして、ファン・ゴッホのモンマルトルの旅はあっけなく、終わってしまったのである。


☆ファン・ゴッホ 『ルピック通りのゴッホの部屋からのパリの眺め』 油彩 1886年 ファン・ゴッホ美術館
☆ファン・ゴッホ 『ラ・ガンゲット』 油彩 1886年 オルセー美術館 


追記:
パリのファン・ゴッホのアパートの情報を検索していたら、日本人の画家で、ファン・ゴッホのアパートに2年間住んだことのある方のブログを発見!世の中には、恵まれた方がいますね。。。
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by van__gogh | 2012-08-16 22:21 | 2012年パリ | Trackback(1) | Comments(0)