カテゴリ:日本人画家( 9 )

片岡球子の「裸婦」に酔う

今年、一番楽しみにしていた展覧会は、現在日本橋高島屋で開催されている、「片岡球子展」であった。
彼女の日本画離れした大胆な構図と力強さが大好きだからだ。そして、本物の絵の前で、これでもか…と迫ってくる勢いに、ただただ感心してしまう瞬間が好きでもある。
以前は油彩も描き、かなり美術に詳しいのに、好きな画家をなかなか教えてくれない秘密主義の父が、「好きだ」と教えてくれた画家が、片岡球子であった。だから私は彼女に、軽い神秘性さえ、感じてしまうのだ。
片岡と言えば、面構シリーズや富士山だろう。しかし、この展覧会で、長い時間立ち止まってしまったのが、片岡が99歳で描いた『ポーズ22』であった。
彼女は長い間、精力的に富士山を初め、目的の場所に出かけ、十分スケッチをしてから、自宅で、作品を完成させていた。しかし、歳を重ね、そう簡単にスケッチ旅行には行けなくなると、アトリエでもできる、「裸婦」にとりかかるのである。彼女は、103歳で亡くなるまで、常に挑戦者であった。
そして、この展覧会で、彼女の描いた「裸婦」を目の前にし、完全に酔ってしまったのだ。今までとは異なった彼女のささやき、もがき、喜び、苦しみ・・・。
まずは、1980年に描いた「裸婦」。背景の青が眩しく、若々しいモデルの健康そうな肉体を見事に描ききっている。
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そして、私の心をとりこにしてしまった作品が、『ポーズ22』だ。顔をはっきり描かず、肉体もぼやかしている。しかしそこには、モデルの恥じらい、それでいて、何も身につけていない、開放感を感じる。さらに、それに相応しい青緑の背景。
私はこの作品を観て、片岡がいつまでも、現代画家として通用するのではないか、と感じるほど、新鮮さを感じてしまったのだ。
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★片岡球子 『ポーズ22』 2004年
★片岡球子 『裸婦』 1980年 岡山県立美術館
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by van__gogh | 2009-05-31 17:09 | 日本人画家 | Trackback | Comments(0)

片岡珠子 『北斎の娘おゑい』

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気の強い歌舞伎の女形の肖像かと思った。しかし私の予想に反して、北斎の娘、おゑいがモデルだと言う。彼女は父の血を受継ぎ、「応為」という名乗る浮世絵師であった。
圧倒的な存在感で描くことが片岡の特徴であるが、それにしても斜めに上がった眉ときつい目つき。そしてとがった鼻と勢いを感じる唇。さらに、着物の着方、特に衿の部分は、乱れており、ここから、彼女の荒々しい性格が容易に想像できるだろう。
このように、気が強く、粗雑な外見に等しく、彼女の色彩や発想も非常に大胆であった。
そのような彼女であったが、北斎の最後を看取った心優しい女性でもあった。
この作品を描いた片岡の顔は丸く、いつも柔和な表情だ。しかし彼女は常に、「誰にも影響されないというのが私の生き方」と、終生、決して人の真似をせず、独特の絵を描き続けた。
おゑいの力強く、人のことなど気にしない外見。一方、心の中に秘められた優しさ。
私はこの作品を見ると、片岡の心の中の肖像のように思えてならないのだ。

☆片岡球子 『北斎の娘おゑい』 1982年 紙本・彩色 山種美術館
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by van__gogh | 2008-09-15 23:22 | 日本人画家 | Trackback | Comments(0)

応挙<芦雪

応挙VS芦雪。ここは魅せられた。そして迷った。
まず、最初に応挙の『三美人図』(1781~89頃)。中央の女性が応挙の愛した女性だそうだ。少し目が離れているが、当時の美人ということだろうか…。
ともあれ、3人の表情がそれぞれよく描かれており、好感度高し。応挙>芦雪の予感が…。
しかし、隣の芦雪の『山姥図額』(1797年頃)を観ると、もう心はこの絵に釘付けになってしまった。
芦雪は写実主義の応挙の弟子だが、この絵は写実を超え、現実には存在しない山姥の恐ろしい表情を見事に描ききっている。それは、顔だけではない、体の先端の手足の爪までだ。
そして、大人の山姥だけではない。子どもの金太郎が、山姥を超えるほどの妖気に溢れてい る。
ここで、完全に応挙<芦雪に。
しかし、ここで終わらなかったのが、次のトラたち。
まずは、応挙の『猛虎図屏風』。写実にこだわった、とても見応えのある作品だ。
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とにかく、虎の毛が、細かい。細かい。1本1本が丁寧に描かれている。
細密画の巨匠、ワイエスもこの時代に応挙のような人がいたことを知っているだろうか…。
そして、少し不自然にも感じてしまったのが、虎の顔。実は、当時、虎がいなかったため、モデルには猫を使ったという。
だから、虎に怖さはなく、愛嬌さえ感じる。
また、体毛は、輸入された虎の敷物を見ながら描いたそうで、こちらも納得。
応挙の描いた虎は、存在感があるものの、怖さを感じさせないのは、写実主義と言っても、本物のトラを観ないで描いたからかもしれない。
ここで、気持ちが応挙に傾き始めたところで、芦雪の『虎図襖』(1786)と対面。
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すぐ様、気持ちが揺らぐ。
画面いっぱいに描かれている1匹の虎。顔よりも大きな前足。どこまで続くのかと思わせる尻尾。日本で最大の虎の絵と言われる。
応挙には感じられなかった、筆の勢いがすばらしい!
この時代も、こういう大胆で、伸び伸びした描き方をする絵師がいたことに、驚きだ。
それも、これだけの表現者が、写実主義の応挙の弟子だということが、何よりも興味深い。弟子の反発精神からだったのだろうか・・・。
他の対決は、ほとんど即決だったが、ここでは悩み抜いて、
『三美人図』<『山姥図額』。『猛虎図屏風』=『虎図襖』で、応挙<芦雪。

山口晃氏の描いた応挙と芦雪も比べてみよう。こちらも迷う。もちろん子犬をかわいがっている応挙に惹かれるが、奇行が目立つと言われた芦雪の「一癖ある表情」を巧みに表している。その理由から、応挙<芦雪。

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by van__gogh | 2008-08-02 23:27 | 日本人画家 | Trackback(1) | Comments(0)

運慶>快慶

ドラクロワVSアングル、モリゾVSゴンザレス、ゴッホVSゴーギャン、ピカソVSマティス・・・欧米の芸術家はいろいろ想像したことがあったけれど・・・。現在東博で、「対決 巨匠たちの日本美術」と題する12対決が開催されており、とても興味深い。

まず最初は、鎌倉時代の運慶VS快慶。貴族政権から、武家政権に変り、芸術も武家好みに変わっていく。
奈良仏教寺院の復興ということで、東大寺南大門の金剛力士像を共同制作したのが、運慶(?~1223)と快慶(?~1227)であった。快慶は運慶の父、康慶に学び、2人は兄弟弟子であった。その2人の対決。
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      運慶『地蔵菩薩坐像』                 快慶『地蔵菩薩立像』

まず、最初に観たのが、運慶。この地蔵菩薩を観るなり、一目惚れ。堂々とした存在感。優しさと同時に、強い凛としたものを感じ、すべてを包み込みそうな大いなるものを感じる。
また、着衣は、多くの深い動きがあり、人生の紆余曲折を想像してしまうのは、私だけだろうか・・・。
隣にある、快慶の菩薩が、ケースに入っているのに対して、運慶の菩薩は、そのままで、親近感や安堵感さえ感じてしまう。

そして、隣の快慶。繊細で、優美な地蔵菩薩は、当時の人びとに、「美」というものを認識させたのでは・・・と思ってしまう。
均整のとれた体つき、唇は紅色に塗られ、さらに、衣のヒダの美しさは、格別だ。文様が目立つように、ヒダは、快慶と反対に浅めである。

私は、やっぱり、綺麗な作品よりも、鑑賞者に「力」を与えてくれる作品が好みだ。だから、運慶に一票!


今回の企画展で、もう一つ興味深いことは、現代の絵師(日本画家)・山口晃氏が各対決の導入説明のところに、対決する2人の肖像を描いていたことだ。
山口氏の描いた運慶と快慶を比べてみよう。こちらでも私は運慶>快慶。
足を広げ、ノミを持ち、作品作りに力強く臨む、運慶に一票!
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by van__gogh | 2008-07-20 22:14 | 日本人画家 | Trackback(1) | Comments(0)

小磯良平のデッサン

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何とやさしい母子の姿だろうか。
我が子を大切に膝の上にのせている母。そして、安心しきった坊やの顔。
この作品を描いた小磯良平は、デッサンの天才だ。
でも、ピカソやドガのような天才肌とは違う。
彼の作品には、正確な線だけではなく、人のぬくもりを感じてしまうからだ。とても人間的なもの、人と共感するものを与えてくれる。
小磯は、線に関して、「柔らかい鉛筆で無造作に引かれた線は、仕上がった絵よりも、いつも面白く、生き生きしている」「無駄と思われるような線も不思議と効果があり、捨てがたいものである」と語っている。
彼のデッサンを見ていると、色が必要ではない・・・と思うことがある。油彩画の鮮やかでダイナミックな作品もいいけれど、一色でたんたんと描かれた線は、生命感があり、一直線に心に響いてくる。
この作品は、ペンや鉛筆ではなく、サンギーヌという赤褐色のコンテで描かれた。
黒ではなく、赤褐色の素朴な色合いによって、一段と、母子の姿に和みと愛おしさを与えているのだ。

☆小磯良平 『母子像(A)』 1954年 神戸市立小磯記念美術館 
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by van__gogh | 2007-10-24 21:36 | 日本人画家 | Trackback | Comments(0)

小磯良平 『斉唱』

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若さ溢れる女学生たちが心一つにして歌を歌っている。タイトルが『斉唱』となっているから、大いなるものへの賛美なのだろうか・・・。
この絵は、私の最も好きな画家の一人、小磯良平(1903-85)によって、1941年に描かれた。彼のデッザンは正確で、絵には、いつも彼の人柄の良さを感じる。この作品もそうだ。
彼女たちに共通するのは、白い襟がついた制服だけではない。靴下を履いているものがいなく、みな素足である。
1941年といえば、太平洋戦争開戦直前だ。パリに留学し、ヨーロッパの状況をわかっていた小磯にとって、戦争が始まれば、どのように展開するのか、人一倍不安に思っていたに違いない。
そして、自身も1938年から従軍画家となり、戦争画を描く運命になっていた。
この清らかな少女たちの将来・・・。「どんなことがあっても、しっかりと地に足をつけて」、「さまざまな方向を向いていても、心一つに」という彼のメッセージを、彼女たちの姿から、私は想像してしまうのだ。

☆小磯良平 『斉唱』 1941年 油彩 兵庫県立美術館
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by van__gogh | 2007-08-15 13:46 | 日本人画家 | Trackback | Comments(0)

丸木位里・俊 『烏』

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鋭いくちばしを持ち、思いやりの心など全くない、真っ黒な烏が群れを成している。丸木位里・俊の描いた『烏』(1972)である。
すでに地上に降りた烏たちは無心に何かに突っついている。何をしているのだろう…。絵に近づいてもあまりよくわからない。なぜならば、腐り始めた人間の体だからだ。その体は、私たち日本人ではなく、よく似た朝鮮の方々である。
彼らは第2次世界大戦中に日本へ強制連行され、長崎の造船所で働かされていた。
そのため、1945年8月9日、長崎に投下された原爆で、彼らのうち約5000人が即死してしまう。それだけではない。日本人の遺体は片付けられても、彼らの遺体は放置されたままだった。そして、夏の暑い日差しの下で、遺体は腐り、烏の餌食となってしまう。死者となってまでも、大きな差別を受けていたのだ。何とも言えない、悲しい事実である。
左上の白い部分には烏が群がっていない。それは、食べれない朝鮮民族の正装、チマチョゴリだからである。
もちろん、このような事態の中、チマチョゴリがあるわけがない。これは、丸木俊が「象徴的」に描いたそうだ。チマチョゴリが風に舞って、遠い祖国へ届くように。
先日の8月15日、小泉首相は、中国と韓国が反発することも無視し、世論が何と言おうとも、靖国参拝を強行した。その理由は「心の問題」だとのこと。「被害を受けた国の人々の心がどうでもいい」と思う風潮が世の中に広まっては困る。
かつて、丸木俊の元に1通の手紙が届いた。韓国人女性からである。「よく描いてくださいました。心をこめて謝ってくれたのはこれがはじめてです」と。このような、お互いの心の交流こそ大切だと、しみじみ思う。
次期首相には、「自分の心の問題」だけでなく、「相手の心の問題」も考えられる人であってほしい。せめて、首相の立場である時だけは…。

☆丸木位里・俊『烏』 1972年 原爆の図 丸木美術館 
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by van__gogh | 2006-08-19 22:59 | 日本人画家 | Trackback | Comments(0)

画家と戦争・・・太田章の場合


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清らかで、瑞々しい浴衣姿の少女だ。これからお祭りにでも行くのであろうか…。そんなことは決してない。
なぜならば、昭和18年(1943)、画学生・太田章(1921‐1944)が太平洋戦争のために入営する数日前に、妹の和子を描いた絵だからである。
太田の父は一流の友禅染めの職人で、父の才能を受け継ぎ、彼は優秀な日本画科の学生であった。
しかし、昭和19年、出征先の満州でわずか23歳で戦死してしまう。 
戦争の絵を描いた画家といえば、まず、丸木位里・俊夫妻や香月泰男があげられるだろう。特に香月は実際にシベリアでの抑留生活を描き、多くの人に感動と戦争の悲惨さを教えてくれた。しかし、それは私たちが想像できない苦難の連続であっても、生きて還れたからこそ、描けたのである。
それもできなく、無念にも死んでいった若い画家や画学生たちの作品を所蔵している場所、それが長野県上田市にある「戦没画学生慰霊美術館 無言館」である。
母が2年前にこの美術館を訪れ、「無言館 戦没画学生祈りの絵」を買ってきてくれた。     
どの作品もまだまだ描きたくてたまらない…という若い生命力が感じられ、作品のすばらしさと同時に、やるせない気持ちでいっぱいになってしまった。
その中に、太田のこの作品も掲載されていた。
白と青の着物と緑の葉とのハーモニーが彼女の初々しさを一層引き立たせ、私は一目で心惹かれてしまったのだ。
そして昨年の3月、母と私は東京ステーションギャラリーで開催された「無言館展」に行くことができた。
いつも行く展覧会とは異なり、鑑賞者が絵とその説明をしっかりと噛みしめていることが、ひしひしと伝わってくる。
死者は無言だ。しかし、残された絵は、私たちに多くのことを語ってくれる。
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この時も太田の作品があり、今度は薄いオレンジ色の半袖のワンピースを着ている「和子の像」が展示されていた。
普段はモンペ姿なのに、素敵な浴衣やワンピースを着させ、妹を最高に美しく着飾ってあげたかったのだろう。
作品の横に説明文が書かれていた。太田は彼女に「もうちょっと、もうちょっと」と声をかけていたそうだ。長時間この姿勢でモデルをつとめるのは大変だったのだ。
彼は少しでも、たとえほんの少しでも自分の思いえがく絵を描きたかったのである。太田には、絵を描くことが最後になるかもしれないという不安と寂しさを、心のどこかに感じていたのだろう。
これらの作品には、絵に対する静かな執着心と妹への愛情で満ちあふれているのだ。そして、日本画特有の細やかな輪郭線が絶妙で、色使いが目と心にとてもやさしい。
先日、NHKの無言館の特集で、和子さんが出演した。
歳を重ねても、太田が描いたとおりの愛らしく誠実で、さらに涙もろい和子さんを拝見でき、私はうれしくなってしまった。
母親が早くに死んでしまったため、和子さんが親戚の家に預けられ、兄は一緒に暮らしていなかったという。
太田は戦地に行くことを和子さんに言わなかったそうだ。つまり、何も知らないでモデルになったという。兄は、愛するかわいい妹に心配をかけたくなかったのだろう。
少し前に、日本を代表する日本画家、鏑木清方や小林古径の作品を観る機会があった。
もし、太田が生きていれば、きっと、彼らに続く日本画家になっていたに違いない。そう私は信じるのだ。

☆太田 章 「和子の像(浴衣)」 水彩・紙  無言館         
☆太田 章 「和子の像(オレンジのワンピース)」 水彩・紙  無言館 
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by van__gogh | 2006-08-13 10:47 | 日本人画家 | Trackback | Comments(0)

画家と戦争・・・靉光の場合

b0059464_20165894.jpg少し顎をあげ、目はどこか遠くを観ているようだ。何だか強い決心がうかがえる。
靉光(1907―46)の描いた「自画像」(1944)である。
今まで数多くの自画像や肖像画を鑑賞してきた。しかし、これほど存在感のある、心に残る作品は思い出せない。
目と同時に印象的なのが、キャンバスの半分以上もあるシャツの大きさだろう。色は白とも黄色とも言い切れない不思議な色だ。
自画像とは画家の心の内を表現する場でもある。この作品には、当時の画家自身の思いを一身に背負った絵に思えてならない。 
なぜ彼はこのような肖像画を描いたのだろうか・・・。
靉光は1907年に広島県山縣郡壬生町で生まれ、本名は石村日郎。六歳で広島市内に住む伯父の家に養子に出され、高等小学校を卒業すると、画家になりたいと養父母に言うが、許してもらえなかった。そのため、とりあえず広島市内の印刷所で図案職人として働く。
16歳になると、大阪のデザイン会社に就職し、翌年の1924年、家族には内緒で上京する。そして太平洋画会研究所に入り、本格的に画業の道に入るのである。
このような強引さを知って、彼の「自画像」を再び観ると、なるほどと思ってしまう。自己主張の強い彼は、絵画の分野でも、前衛的なグループに所属し、「眼のある風景」(1938)のようなシュルレアリスム風の作品を描いていく。
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ちょうど同じ時期、我が国では「国家総動員法」が発効され、軍部が戦争協力として、「画家に戦争画を描かせる方針」を打ち出す。
物資の少ない混乱期に、画材などが入手しやすく、国家への忠誠を果たすことにもなる。そのため、多くの画家が「戦争画」を描き始め、「聖戦美術展」などで公開された戦争画は、五千点に及ぶと言う。
今日ではテレビやインターネットなどで、瞬時に世界情勢を知ることができる。しかし当時は、戦争画が日本国の情報源の一つになっていたのだ。
それでも、画家の姿勢はさまざまであった。
藤田嗣治のように、率先して戦地へと向かい、多くの戦争画を描き、名声をあげる画家もいた。戦後、彼のみに戦争責任をなすりつける結末になるが、それほど、彼の野望や作品の完成度は高い。
一方、藤島武二のように、「慣れない仕事で成果は期待できないが、終生の傑作を産む算段で努力します」と言った画家もいた。
また、靉光の仲間の福沢一郎は、治安維持法違反の嫌疑により逮捕され、終戦まで戦争画制作に従事させられる。
靉光はこの自画像に見られるように、強い自我を持った人であった。「わしにゃあ戦争画は描けん」と言って、本当に自分が描きたいものだけを描いていく。
そして1944年に、画家ではなく、兵士として戦場に向かう。
その5ヶ月前に描いた作品がこの「自画像」だ。
彼は中国・武昌で敗戦を迎えたものの、1946年、上海の病院で死亡してしまう。
彼の出身地である広島は原爆が投下され、彼の貴重な多くの作品は原爆で灰となってしまった。
残された数少ない作品の中の「自画像」は、彼の置き手紙のように思えてしまう。
背景の黒は、彼を襲う戦争の激動期と想像してみたい。
何があっても、決して揺るがない彼の制作熱と信念を、私はこの作品から感じてしまうのだ。
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by van__gogh | 2006-04-01 23:18 | 日本人画家 | Trackback | Comments(0)