TSUBUYAKI美術班 藤田嗣治特別メニューを食す

f0104004_20381143.jpg本日はTSUBUYAKI美術班の活動日。「藤田嗣治展」に行ってきました。会場はかなり混んでいましたが、ゴッホ展の殺気ばったような雰囲気(私自身が高ぶっていたこともありますが・・・)がなく、混んでいても、ちゃんと一つ一つの作品を鑑賞できました。
彼の代名詞とも言われる「乳白色」と「猫」。その中でも、『タピスリーの裸婦』が最高傑作だと私は思っています。裸婦だけではなく、この背景のタピスリーの色とシーツの皺と陰が何ともいえません。。。もうすばらしい!の一言です。藤田の「乳白色」を始めて観た時、「日本画?でも違う・・・確かに油絵だ・・・」と絵に顔を思いっきり近づけたことを覚えています(今でもですが)。
こんなただの鑑賞者だけでなく、あのピカソが彼の絵の前に3時間いたということを読んだことがあります。それ程、誰もが決して出せない、魅力・謎の色です。
そして、もう一つ印象的だったことは、戦争画の部屋で、後ろにいた女性(戦争体験者だと思います)が、「お~っ」「お~っ」と言っている声が聞こえたことです。本当に正直な声だと思いました。それ程、切迫感・臨場感があります。だからこそ、彼は戦後の「戦争責任」を一人で背負うことにもなってしまったのです・・・。

鑑賞後、クイーン・アリス・アクアで、「藤田嗣治展特別メニュー」をオーダーしました。
わ~い!

<メニュー>
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<前菜 七面鳥とフォア・グラのファンタン>
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栗をおそそうして、落としてしまいましたが、班長が半分くださいました。やさしい~。ありがとうございます!

<オマール海老のグラタン>
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味噌テーストで、海老のプリプリ感もいい感じです。このお料理が一番おいしかったです。

<オリーブ牛のプロヴァンス風>
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<デザート ポワール・ベル・エレーヌ>
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シャーベットが隠れていました。これもフレンチ・スウィーツのなせる技ですね。

パリ帰りの友人が「パリ自慢」の写真やファイルを見せてくださり、藤田嗣治特別メニューをいただきながら、パリの話に盛り上がりました。班長ともう一人の友人も去年パリに行っていて、私だけだ、行っていないのは~。美術班員としてはまだまだ半人前。

f0104004_2171763.jpgクロワッサンやフランスパンが日本とは比べられないほど、おいしいそうです。さらに、ニューヨークの超有名ベーカリーより、はるかにおいしいとのこと。
藤田の作品にも2点、フランスパンを描いた作品がありました。左の作品は藤田が76歳の時描いた『朝の買物』です。フランスではこのように、フランスパンをそのまま持ち歩くようです。サンドウィッチというと、切っていないバケットがそのまま出てくるとか。私もフランスに行って、ぜひ本場のパンを味わってみたいです。もう心の中は藤田の作品とParisでいっぱいです!
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# by van__gogh | 2006-04-09 22:47 | 美術班活動 | Trackback(1) | Comments(0)

エドワード・ホッパー『ナイトホークス』


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とても静かなニューヨークの夜。
周りのビルの電気が消え、このダイナーだけが目立つ。暗闇とぶつかり合った光が一層、この店を浮かび上がらせている。見事な光の効果である。
ニューヨークで活躍したエドワード・ホッパー(1882‐1967)の描いた「ナイトホークス(夜更かしする人々)」(1942)だ。
1942年といえば、第2次世界大戦の真っただ中。この絵からもアメリカは軍事関係だけでなく、生活面、文化面でも、はるかに日本より優れていたことがわかる。日本が戦う相手ではなかったような気持ちにさえなる。
彼が描いた都会のアメリカ人の心とはどのようなものだったのだろうか。
「ナイトホークス」のモデルはカフェの店員と男女のカップルと後ろ姿の男性の
4人。彼らには冷たさと異なる「個」というものを感じてしまう。
ホッパーの絵の多くが、人物にあまり感情を入れず、光で表情をつける。そのため、1人1人の存在は孤立感がある。鑑賞者が表情を付け加えてもいいだろう。2人の男女はホッパーの作品には珍しく、会話をしているようだ。しかし、心の中に強い「自己」というものを持ちながら、相手に対して言葉を選んでいるようにも見える。
店員は客の様子を伺いながらも、少し疲れた感じである。そして、後ろ姿の男性は1人で何をしているのだろうか。背広に帽子姿。頭を少しさげ、テーブルに両肘をついている。おそらく、勤め帰りなのだろう。仕事や家庭の悩みに思いふけっているのだろうか。それとも昔の出来事を思い出しているのだろうか。
アルコールではなく、コーヒーというのもいい。
多くの人が「ナイトホークス」に惹かれる理由の1つに、この後ろ姿の男性と自分を重ねられるところではないだろうか。
アメリカは「自由と平等の国」と言われながらも、その裏では、厳しい競争と自己責任が問われる社会である。
精神面で、カウンセリングに通う人も多い。自分の正当性を主張するために、弁護士を立てることも日本とは比較にならない。誰もが自分を守ることに必死なのだ。その結果、自分が1人になってしまう時もあれば、自ら1人になりたいと思うこともある。都会であれば、なおさらだ。
彼の作品は「悲観」を表すものではない。都会で生活していれば、誰もが多かれ少なかれ感じる「孤独の一瞬」をわかりやすく描いている。だから多くの人が、彼の作品に共感するのだ。
そして、ホッパーの絵には、必ず都会の人々に対する優しいまなざしもある。
彼自身、「静かな男」と言われ、自分の生活や作品に対して、多くを語らなかったという。これは彼の後ろ姿でもあるのではないか。
ホッパーの作品の中でも人気のある「ナイトホークス」はアメリカ3大美術館の1つ、シカゴ美術館にある。なぜか、この美術館には彼の作品がこの一作のみ。それも、展示室の片隅にひっそりとある。少し意外でもあった。しかし、絵の前にたどり着いた時、この場所が、いかにもホッパーらしく私には思えたのだ。
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# by van__gogh | 2006-04-04 10:20 | アメリカ人画家 | Trackback | Comments(0)

画家と戦争・・・靉光の場合

b0059464_20165894.jpg少し顎をあげ、目はどこか遠くを観ているようだ。何だか強い決心がうかがえる。
靉光(1907―46)の描いた「自画像」(1944)である。
今まで数多くの自画像や肖像画を鑑賞してきた。しかし、これほど存在感のある、心に残る作品は思い出せない。
目と同時に印象的なのが、キャンバスの半分以上もあるシャツの大きさだろう。色は白とも黄色とも言い切れない不思議な色だ。
自画像とは画家の心の内を表現する場でもある。この作品には、当時の画家自身の思いを一身に背負った絵に思えてならない。 
なぜ彼はこのような肖像画を描いたのだろうか・・・。
靉光は1907年に広島県山縣郡壬生町で生まれ、本名は石村日郎。六歳で広島市内に住む伯父の家に養子に出され、高等小学校を卒業すると、画家になりたいと養父母に言うが、許してもらえなかった。そのため、とりあえず広島市内の印刷所で図案職人として働く。
16歳になると、大阪のデザイン会社に就職し、翌年の1924年、家族には内緒で上京する。そして太平洋画会研究所に入り、本格的に画業の道に入るのである。
このような強引さを知って、彼の「自画像」を再び観ると、なるほどと思ってしまう。自己主張の強い彼は、絵画の分野でも、前衛的なグループに所属し、「眼のある風景」(1938)のようなシュルレアリスム風の作品を描いていく。
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ちょうど同じ時期、我が国では「国家総動員法」が発効され、軍部が戦争協力として、「画家に戦争画を描かせる方針」を打ち出す。
物資の少ない混乱期に、画材などが入手しやすく、国家への忠誠を果たすことにもなる。そのため、多くの画家が「戦争画」を描き始め、「聖戦美術展」などで公開された戦争画は、五千点に及ぶと言う。
今日ではテレビやインターネットなどで、瞬時に世界情勢を知ることができる。しかし当時は、戦争画が日本国の情報源の一つになっていたのだ。
それでも、画家の姿勢はさまざまであった。
藤田嗣治のように、率先して戦地へと向かい、多くの戦争画を描き、名声をあげる画家もいた。戦後、彼のみに戦争責任をなすりつける結末になるが、それほど、彼の野望や作品の完成度は高い。
一方、藤島武二のように、「慣れない仕事で成果は期待できないが、終生の傑作を産む算段で努力します」と言った画家もいた。
また、靉光の仲間の福沢一郎は、治安維持法違反の嫌疑により逮捕され、終戦まで戦争画制作に従事させられる。
靉光はこの自画像に見られるように、強い自我を持った人であった。「わしにゃあ戦争画は描けん」と言って、本当に自分が描きたいものだけを描いていく。
そして1944年に、画家ではなく、兵士として戦場に向かう。
その5ヶ月前に描いた作品がこの「自画像」だ。
彼は中国・武昌で敗戦を迎えたものの、1946年、上海の病院で死亡してしまう。
彼の出身地である広島は原爆が投下され、彼の貴重な多くの作品は原爆で灰となってしまった。
残された数少ない作品の中の「自画像」は、彼の置き手紙のように思えてしまう。
背景の黒は、彼を襲う戦争の激動期と想像してみたい。
何があっても、決して揺るがない彼の制作熱と信念を、私はこの作品から感じてしまうのだ。
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# by van__gogh | 2006-04-01 23:18 | 日本人画家 | Trackback | Comments(0)

ゴッホの作品のある美術館・・・①ポーラ美術館

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ポーラ美術館にはゴッホの作品(油彩)が3作あります。私の知っている限りでは日本において最大ではないでしょうか(日本はゴッホファンが多いのですから、もっと、もっとあってもよいと思うのですが・・・)。
この美術館は神奈川県箱根にあり、なかなか行くことができません。しかし、運がいいことに、3作ともそれぞれ2回、他の美術館の特別展で鑑賞することができました。

「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」f0104004_20523076.jpg
1888年2月、ゴッホはパリから温かい南仏アルルにやって来る。というのも、冬のパリは寒く、精神的にも疲れ果て、ロートレックのすすめもあって、この南の地を選んだのだ。
しかしゴッホの期待とは裏腹に、アルルは想像以上に寒く、戸外で絵を描くことが難しかった。知っている人もいなく、孤独なゴッホ。
3月になると、少しずつ温かくなり、戸外での制作も可能となってきた。そのころ描いた作品が、ゴッホの名作の一つと言われる「アルルの跳ね橋」(クレラーミュラー美術館)である。その作品の習作がこの「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」だ。 f0104004_20494061.jpg
だから、「アルルの跳ね橋」が繊細で、洗練されている半面、この作品はタッチが縦、横、斜めと重ねられ、キャンパス上で模索をしているようにもみえる。
また女性たちにオレンジの縁取りをしたり、水面にもオレンジや白を用い、新しい色彩への試みも感じる。
2つの作品のどちらがいいと聞かれれば、どちらもそれぞれいい。
しかし、ゴッホの描くことのできる喜びでは、「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」の方が強く表われているのではないだろうか。
筆使いに強い勢いを感じるからだ。習作のため気負いもない。やっと、戸外で描ける喜び。 パリでは都会的な雰囲気の中で、絵の題材もそういうものが多かった。
だから、この素朴な橋や運河を見て、ゴッホはオランダを懐かしく思ったに違いない。そしてオランダ時代に描いた農民たちの姿と洗濯する女性たちを重ね合わせたのかもしれない。まだ冷たい水で一生懸命洗濯する彼女たちに愛情を感じながら…。
ゴッホは弟のテオ宛ての手紙に、描いた「アルルの跳ね橋」について語った後、「グレーズ橋」について、「もう一枚は鄙びた小橋と同じように洗濯女のいる風景」と書いている。
鮮やかな跳ね橋に比べれば、この橋は確かに鄙びている。そして馬車に乗った躍動的な人と鄙びた橋を静かに渡る女性との比較。さらには集団で洗濯をしている女性たちとぽつん、ぽつんと離れて洗濯をしている女性たちとの対比も興味深い。
しかしこの「グレーズ橋」には不思議と寂しさを感じない。なぜならば、これからもっと温かくなって、アルルでどんどん新しい色彩に挑戦していこうという、ゴッホの強い希望が、生き生きと感じられるからだ。

『草むら』
f0104004_21111526.jpgこの絵を観ると、ゴッホが一段と愛しくなる。
花があるわけでもなく、空もない。ただただ一面に緑の草。何の草かもわからない。タイトルの通り、ただの草むらを描いただけなのに、何だか惹かれてしまう。
1888年2月、ゴッホは寒いパリから離れ、南仏のアルルに行く。そして、画家としての絶頂期を迎える。
しかし翌年4月に描かれた『草むら』はどうだろう…。この数ヶ月間はゴッホにとって、最も辛かった時期だったに違いない。
12月にはゴーギャンとの対立から自分の耳を傷つける。ゴーギャンの耳では犯罪になるが、自分の耳では法的に犯罪ではない。ゴッホファンの私としては、ゴーギャンの耳ではなくてよかった…と素直に安堵してしまう。しかしその後が悪い。どういう理由かわからないが、その「耳たぶ」を知り合いに渡してしまったからだ。
そんなことがアルルの住民に広まり、通称「黄色い家」に再び住み始めたゴッホに対して、市長に抗議をする。そのため彼は再度、病院に入院することになってしまう。
そしてしばらく絵を描くこともできず、その時の苦しさを弟のテオに手紙で語っている。
3月になって、やっと病院の庭などが描けるようになり、その時に描いた作品の一つが、この『草むら』だ。生い茂る葉の一枚一枚を丁寧に描き、絵に迷いがない。
冬には苦しいことばかりだったけれど、もう草が生える春だ。
この絵を描きながら、自分には「絵がある」「絵しかない」ということを改めて思ったのではないだろうか。

『アザミの花』f0104004_21171797.jpg
この「アザミの花」は何とやさしい色合いだろうか・・・。
とらさんが背景を「白緑色」だとおっしゃっていたが、本当にそう思う。
アザミの鋸歯状の葉や麦の穂などちょっと個性的な形を白と緑の背景がやさしく包み込み、さらに丸みのある花瓶にも柔らかさを感じる。
この絵は1890年6月16日又は17日にゴッホの終焉の地、オーヴェール・シュル・オワーズで描かれた。彼の主治医であるガシェの家にあったアザミの花をモチーフにしたという。
この地の作品としては「オーヴェールの教会」や「カラスのいる小麦畑」のようにゴッホの精神の破壊ばかりが強調されがちである。しかし画集をみると、そんなことは決してない。
その中の一つがこの「アザミの花」だ。
このやさしく清らかな背景がゴッホの傷ついた心を包み込んでいるように、私には思えてしまうのである。
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# by van__gogh | 2006-04-01 20:50 | ファン・ゴッホ | Trackback | Comments(0)

ファン・ゴッホ 『じゃがいもを食べる人々』

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私はファン・ゴッホの絵がたまらなく好きだ。
日常何気ない時に観ることも好きだが、苦しい時や悲しい時に観ると、とても心が落ち着く。
ファン・ゴッホというと、アルル時代の「ひまわり」のような華やかでキラキラした色彩の絵や、後期の「糸杉」や「星月夜」のような荒々しく、一段と独特のゆがんだ物の見方をした絵が、特に有名である。
私は、これらの絵ももちろん大好きだ。特に自分の力が湧かない時に強い筆使いを見ると、力をもらったように感じる。そのおかげで何度がんばれたか、数え切れない。
そうした中で、一番好きな作品は、初期に描かれた『じゃがいもを食べる人々』を迷わず選ぶ。
ファン・ゴッホは、短気で思い込みの激しいところがあった半面、かわいそうなくらい純粋でやさしく、正義感が強すぎて傷つきやすく、ストレートに感情を表してしまう。
この絵もそんな彼の純粋さと社会派的なところが感じられる作品で、最大の特長は、主人公が貧しい農民であることだ。
この作品には5人の農民が描かれているが、少し人間離れし、やせすぎた顔をしている。また、少し不思議でもあり、おもしろいなと思うところは、この5人が視線を合わせておらず、会話が成り立っているのか成り立っていないのかもわからないこと。しかし、彼らの顔や手からは、厳しい労働に耐え、一生懸命に生きている人々の内面的な強さがうかがえる。
ファン・ゴッホはミレーの農民の絵に感銘したそうだが、ミレーの「晩鐘」や「落穂ひろい」のようにのどかで牧歌的な作品ではなく、もっと人間の生活を感じる。しかし、この時期のファン・ゴッホの農民をはじめ労働者の表情は、みじめさやあわれな雰囲気ではなく、威厳ともいえるくらい、強い信念をうかがえるところが、私は最も好きだ。
「顔の表情」からその人の性格や状況がわかるとよく言われるが、私は「顔」と同様に「手」も、その人の心の状態や生活感を表す重要な部分だと思う。「顔」でうまくごまかしても「手」が反応してしまうことがある。
「手の表情」は人間の心理を顔以上に表す場合があるので、私は絵画や映画を観る時、どうしても手の表情にも目がいってしまう。
ファン・ゴッホはこの手の表情を非常によくとらえた画家だと思う。特にこの「じゃがいもを食べる人々」にそれが表されている。
ファン・ゴッホはこの絵の手の部分に関して「彼らが土を掘るその手で食べているように、空気のように自然に描こうと努力した」と書いている。
家は小屋と言った方がふさわしく、食卓の上にランプの光がある以外は暗い色を用いている。ファン・ゴッホはこの色を「泥だらけの皮をはがないじゃがいものような色だ」と書いているが、なるほどと思った。暗い色彩。しかし、貧しさの中でも農民の表情から、秘めた強さを感じる。そこが、たまらなくいい。
この絵はオランダの「ファン・ゴッホ美術館」にある。この絵の色彩が本によって微妙に違う。
いつか、ファン・ゴッホの故郷のオランダで、実物の『じゃがいもを食べる人々』を鑑賞できることを夢見て!

☆『じゃがいもを食べる人々』 The Potato Eaters
1885年4月 ニューネン 油彩 ファン・ゴッホ美術館
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# by van__gogh | 2006-04-01 19:59 | ファン・ゴッホ | Trackback | Comments(0)